2005年10月03日

宇喜多秀家〜ぼっちゃん大名だよ〜

宇喜多秀家.jpgえ〜とある人のリクエストを受けましてこの人物を急遽取り上げることになりました(笑)宇喜多秀家は宇喜多直家の息子で1581年にわずか9歳で家督を相続しました。宇喜多直家は暗殺などの謀略を駆使して今の岡山県一帯をほとんど軍事行動なしで手に入れた人物です。うん、怖いですね。どうやら弟にすら怖れられていたようです。そんな直家も晩年は信長軍の中国方面軍司令官の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に下っていました。その秀吉に秀家は気に入られ養子となります。本能寺の変後は秀吉に強力して57万石の大大名となります。親族の少ない秀吉にとって秀家は信頼のおける人物で親族級の扱いを受けていました。そして秀家自身も秀吉に傾倒していてとても良好な関係を築けていたようです。そして中納言の位まで昇格し、秀吉晩年には豊臣政権最高機関の五大老にまで選ばれることになります。

しかし、若くして家を継いだため苦労しらずのぼっちゃん大名だったことは否定できないようです。家臣団を上手く束ねられず、関ヶ原の合戦の前には大量の譜代の家臣が離反してしまい宇喜多家の戦力を大きくダウンさせることになりました。

関ヶ原の合戦において秀家は石田三成の要請に応え西軍の副将として1万7千の大兵を率い参陣します。その活躍ぶりはなかなかのものだったようで多くの小説でも頼りになる人物として書かれています。確かに戦意は旺盛だったと思います。ただやはり関ヶ原の合戦における戦いぶりを見ると首をかしげたくなります。とうのも合戦において秀家は福島正則という猛将と戦うことになるのですがその戦いぶりは互角ぐらいだったと言われています。兵力は秀家が1万7千、正則が6千です・・・正則軍が東軍最強軍だったことを差し引いてもちょっと情けない話ですよね。やはり譜代の家臣の大量離脱が痛かったのでしょう。

小早川秀秋の裏切りにより西軍は敗北し秀家も逃亡することになりました。三成や小西行長といった西軍首脳が捕縛される中、彼は東軍の追ってをなんとか振り切ることに成功します。薩摩の島津家にかくまわれますが、1606年に八丈島に配流されることになりました。その島で84歳まで生きたようです。何を思って生きたのでしょうか?

ちなみに秀家の建設した岡山城は戦前は国宝だったようですがアメリカ軍の空襲によって燃えてしまい、今ある天守閣は再建されたもののようです。戦争なんてろくなもんじゃないですね。ボブ夫のどうでもいいことでした。

歴史ランクが上昇中だが自分のブログは歴史ブログなんだろうか・・・
posted by ボブ夫 at 23:12| Comment(3) | TrackBack(1) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月02日

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