2005年07月13日

武田勝頼の評価

長篠の合戦と聞いて皆さんは何を思い浮かべますか?織田信長が鉄砲隊を使って武田の騎馬隊を殲滅した戦いだろ?とか、武田勝頼(武田信玄の息子)の愚策によって多くの名将達が戦死し武田家は滅亡への坂を転がり始めたと認識してる方もいるでしょう。しかし、この長篠の合戦の敗戦は武田勝頼の責任だったのでしょうか?

当時信長の天下統一事業は順調に進んでいましたが、武田信玄なき武田家の勢力も侮りがたいものがありました。武田家当主、武田勝頼は信長の同盟者である徳川家康を攻め織田信長を引きずりだすことに成功しました(信長から見れば引きずりだされた訳でなく徳川家康の要請を無視できなかったと考えられます)。ともかく武田勝頼は信長を戦場にひっぱりだしたかった訳です。

なぜか?これは実に重要なことです。勝頼は側室の子であり一時は他家に養子に出されていました。そのため家中では正式な後継者とみなされていませんでした。本来なら後継者になるはずだった人物はどうしたかというとなんと信玄が自殺させています(これは信玄最大の失敗であり武田家滅亡の大きな要因となります)そのため勝頼は自分の力を家臣達に示し続ける必要がありました。そしてやはり信長という当代きっての大大名を野戦によって打ち破ることは大きなアピールになると考えるのは当然でしょう。

対する信長は確かに武田家に一定の注意は払っていたものの、信玄健在時に比べればその脅威は小さいものと考えていたと思われます。

この両者の違いは合戦に大きな影響を及ぼしました。信長が出陣したという知らせを受けて勝頼は設楽ヶ原に布陣しました。野戦において雌雄を決しようとしたのです。これは信長の罠だったことは皆さんご存知ですね。馬防柵の中から三千丁の火縄銃による攻撃で武田軍は壊滅的な被害を受けました。勝頼のあせりと信長の余裕が生み出した結果でした。

しかし勝頼のあせりは間違いなく信玄が生み出したものです。先ほど述べたように長男を自害させたことに加え、信玄の遺言も勝頼を縛り付けました。「京に武田の旗を立てよ」こんな遺言を残された勝頼の気持ちを考えるとかわいそうになります。この遺言を無視したら信玄子飼いの家老達は間違いなく反発します。勝頼には選択肢は一つしかありませんでした。攻めるだけです。例え負けると分かっていても・・・信玄は確かに名将でしたが多くの間違いを犯しています。その負の部分を勝頼が受け継いでいたのでしょう。歴史は敗者には厳しいものです。こうした人物の真実に触れることはとても興味深いです。時々こんなことも書いていきます(笑)多分そのうち長篠の合戦そのものについても書くと思います。ボブ夫のどうでもいいことでした。
posted by ボブ夫 at 21:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
長篠の戦・・・嗚呼・・・馬場、山県・・・私の好きな歴戦の勇士も数多く亡くなりました・・・
Posted by 夫人 at 2005年07月15日 09:52
内藤も・・・武田四名臣の中で生き残ったのは高坂だけでしたね
Posted by ボブ夫 at 2005年07月15日 10:11
 以前から、考えていたのですが、勝頼は戦略的に今のうちに織田勢に大打撃を与える必要があると思ったとは考えられないでしょうか?
 傭兵が主体の織田勢に対して武田は農業の為、長期は戦えません。
Posted by tokiaki at 2011年08月24日 05:49
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