2005年10月23日

最近更新頻度が・・・

小泉総理は織田信長と比較されることがよくあります。もし小泉総理が信長だったら・・・・

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2005年10月03日

宇喜多秀家〜ぼっちゃん大名だよ〜

宇喜多秀家.jpgえ〜とある人のリクエストを受けましてこの人物を急遽取り上げることになりました(笑)宇喜多秀家は宇喜多直家の息子で1581年にわずか9歳で家督を相続しました。宇喜多直家は暗殺などの謀略を駆使して今の岡山県一帯をほとんど軍事行動なしで手に入れた人物です。うん、怖いですね。どうやら弟にすら怖れられていたようです。そんな直家も晩年は信長軍の中国方面軍司令官の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に下っていました。その秀吉に秀家は気に入られ養子となります。本能寺の変後は秀吉に強力して57万石の大大名となります。親族の少ない秀吉にとって秀家は信頼のおける人物で親族級の扱いを受けていました。そして秀家自身も秀吉に傾倒していてとても良好な関係を築けていたようです。そして中納言の位まで昇格し、秀吉晩年には豊臣政権最高機関の五大老にまで選ばれることになります。

しかし、若くして家を継いだため苦労しらずのぼっちゃん大名だったことは否定できないようです。家臣団を上手く束ねられず、関ヶ原の合戦の前には大量の譜代の家臣が離反してしまい宇喜多家の戦力を大きくダウンさせることになりました。

関ヶ原の合戦において秀家は石田三成の要請に応え西軍の副将として1万7千の大兵を率い参陣します。その活躍ぶりはなかなかのものだったようで多くの小説でも頼りになる人物として書かれています。確かに戦意は旺盛だったと思います。ただやはり関ヶ原の合戦における戦いぶりを見ると首をかしげたくなります。とうのも合戦において秀家は福島正則という猛将と戦うことになるのですがその戦いぶりは互角ぐらいだったと言われています。兵力は秀家が1万7千、正則が6千です・・・正則軍が東軍最強軍だったことを差し引いてもちょっと情けない話ですよね。やはり譜代の家臣の大量離脱が痛かったのでしょう。

小早川秀秋の裏切りにより西軍は敗北し秀家も逃亡することになりました。三成や小西行長といった西軍首脳が捕縛される中、彼は東軍の追ってをなんとか振り切ることに成功します。薩摩の島津家にかくまわれますが、1606年に八丈島に配流されることになりました。その島で84歳まで生きたようです。何を思って生きたのでしょうか?

ちなみに秀家の建設した岡山城は戦前は国宝だったようですがアメリカ軍の空襲によって燃えてしまい、今ある天守閣は再建されたもののようです。戦争なんてろくなもんじゃないですね。ボブ夫のどうでもいいことでした。

歴史ランクが上昇中だが自分のブログは歴史ブログなんだろうか・・・
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2005年09月27日

長宗我部元親〜四国の蓋〜

長宗我部元親.jpgまあ、戦国時代好きの人にはメジャーすぎる人物ですよね。案外、そうでもない人もこの個性的な名前を知っている人も多いかと思います。一応読み方はチョウソカベモトチカです。彼は四国の大名でした。それも四国を統一した結構な大物です。しかし幼少の頃はおとなしい性格で陰では「姫若子」と呼ばれていました。しかも初陣の際、槍の使い方を家臣に尋ねたそうです。こんなエピソードが残っているのは彼ぐらいでしょう(笑)槍の使い方知らないって・・・ちなみに尋ねられた家臣は「槍は敵の目に突くものです」と答えたそうです。まあこんなヘタレな彼も初陣で大活躍をし、「姫若子」から「鬼若子」への変身を遂げます。その後、父の後を受け継ぎ長宗我部家の当主として四国統一に動き出します。四国で元親の能力は抜きん出ていました。また信長と同盟を結ぶなど時勢を見る目も確かでした。本能寺の変後も、着々と勢力を広げ1585年になり念願の四国統一を実現しました。この統一された四国の兵力を持って本州上陸が果たせれば、天下も狙える・・・・時代はそれを許しませんでした。天下人、豊臣秀吉の登場です。秀吉の大兵力によってあっけなく長宗我部軍は敗北しました。兵農分離と兵農未分離の差も大きかったといわれていますが、それ以上に兵力の差が歴然としていたと思います。


長宗我部家に暗雲・・・
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2005年09月10日

蒲生氏郷〜田舎なんて嫌だよ・・・〜

蒲生氏郷.jpg久しぶりに歴史のお話です。今日の人物は蒲生氏郷です。戦国時代が好きな人にはかなり有名ですがそうでもない人には誰だそりゃ?って感じかもしれません。とりあえず言えることはエリート武将です。しかしそれだけではつまらないのでなんかエピソード交えて紹介していきます。幼少期は信長の人質でしたが信長はその才をすぐに見抜き、娘を嫁がせ武将の末席に加えました。当時知勇兼備の武将として名高かった稲葉一鉄は「このガキは尋常じゃない武将になるぞ」と言っていたそうです(ちなみにこの稲葉一鉄は頑固な性格で頑固一徹の言葉の由来になったと言われています)本能寺の変で信長が死ぬと氏郷は秀吉に味方し伊勢松ヶ島12万石を与えられました。ここは現在の松坂です。そして小田原の役後、会津に転封されます。以前書いた伊達政宗の押さえだと言われています。しかし秀吉としては優れた資質の持ち主である氏郷を中央から遠国に置くのが狙いだったようです。実際、氏郷はこの転封が決まった後「これでは天下は望めない」と嘆いたそうです。氏郷はその後も秀吉政権下で反乱などを抑えて92万石まで出世します。しかし1595年に急死します。40歳の若さだったため秀吉による暗殺疑惑すらでています。くせものの伊達政宗が隣国にいることや天下人である秀吉に危険視されていたためストレスがたまっていたんじゃないですかね。この蒲生氏郷が関ヶ原の合戦まで生きていたら歴史は変わったでしょうか?実際のところ大きな変化はなかったでしょう。しかしそういった想像をかきたててくれるほどの名将だったことは事実です。最後に氏郷の格好いいエピソードを紹介します。新しく召抱えた者に「戦場で銀の鯰(なまず)尾の兜をつけた者を見かけたらその者に負けぬ活躍をせよ」と氏郷は言いました。その新参者は戦場で尋常でない活躍をしている銀の鯰尾の兜をつけた者を見かけました。言うまでもありませんね。蒲生氏郷その人だったそうです。ボブ夫のどうでもいいことでした。

ランキング下降中!
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2005年08月25日

滝川一益〜茶器が欲しいの!〜

滝川一益.pngなんかこの肖像画格好よくないですか?私だけですかね。私にはすごく頭のきれそうな武将に見えるんです。私がこの人を初めて知ったのは小学校の時です。漫画日本の歴史の端っこの方に載っていたこの人物を見て興味がわいてきことを記憶しています。そんなわけで今日はマイナーな武将を紹介しますよ。その名は滝川一益。続きを読む
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2005年08月14日

本能寺の変の謎

織田信長肖像画.jpg本能寺の変は日本史史上に残るクーデタです。実行犯は明智光秀でした。本能寺で信長を抹殺した後、光秀は天下を目指します。しかしご存知のように秀吉により討たれてしまいます。
なぜ明智光秀という人物は信長を裏切ったのでしょうか?そして裏側では何があったと思いますか?過去には様々な説が生まれてきています。もちろん根拠のない説から、非常に論理的な説まで千差万別です。その中からいくつか説をあげていきたいと思います。




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2005年08月05日

伊達政宗〜内に秘めた野望

伊達政宗・・・・・名前が格好いいですよね。そしてゲームやテレビでも格好よく描かれます。なんかひたすら格好いいイメージがあります。天下人である秀吉や家康に物怖じせず渡り合ったのが人気の秘密かもしれません。はたまた騎馬鉄砲隊の採用やイスパニアとの同盟を図るなどした企画力かもしれません。もしかすると天下人になれたかもしれないという人もいます。果たして彼に天下をとる可能性はあったのでしょうか?そして天下人たる器であったのでしょうか?続きを読む
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2005年08月03日

真田幸村伝説

真田幸村と言えば戦国時代きっての人気者です。戦国大名人気ランキングなどでも信長、秀吉、家康に匹敵する唯一の人物です。私の中では最後の戦国武将というイメージがあります。彼の人生最大の見せ場はなんといっても大坂の陣における獅子奮迅の戦いぶりです。続きを読む
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2005年07月30日

島津四兄弟

島津家は九州を代表する戦国大名です。この島津家、実はすごいんです。最盛期は九州のほとんどをその版図にして西日本最強の大名として君臨しました。時代の流れに逆らえきれず豊臣秀吉に下りはしましたがその名声は下がりませんでした。それどころか朝鮮出兵では目覚しい活躍を見せつけ島津軍の強兵ぶりを国内外にアピールしました。さらに関ヶ原の合戦では西軍に属しながら、その領土を全く減らされない優れた外交手腕も持ち合わせていることも証明しました。今回はその島津家にせまってみます。続きを読む
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2005年07月27日

毛利三兄弟

一番上は凡庸、凡庸♪
一番下は名将、名将♪
間にはさまれ、豪傑、豪傑♪
毛利三兄弟!

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2005年07月23日

豊臣秀長というヒト

豊臣秀長という人物を知っていますか?彼は天下人、豊臣秀吉の弟です。彼の業績はあまり目立ちません。そのほとんど秀吉に譲っています。最終的には大和郡山城を与えられ、大納言に任じられてからは大和大納言と称され多くの大名から慕われていました。
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posted by ボブ夫 at 17:17| Comment(5) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月19日

小早川秀秋は愚将か?

戦国時代には裏切りは日常茶飯事でしたがその中でも最も大きな裏切りの一つとされているのは関ヶ原の合戦における小早川秀秋の行為です。関ヶ原の合戦は言うまでもなく天下分け目の決戦で徳川家康はこの合戦に勝ったことによって天下をほぼ掌握したとされています。

この合戦において重要な役割を演じたのが西軍に属し松尾山に布陣した小早川秀秋でした。東西両軍一歩も譲らない状況が続く中、秀秋は西軍主力として奮戦中の大谷吉継の側面をついたのです。これがきっかけとなり西軍は完全に浮き足だち一気に敗走することになりました。小説や大河ドラマなどで秀秋は優柔不断で愚鈍な武将として描かれることが目立ちます。続きを読む
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2005年07月13日

武田勝頼の評価

長篠の合戦と聞いて皆さんは何を思い浮かべますか?織田信長が鉄砲隊を使って武田の騎馬隊を殲滅した戦いだろ?とか、武田勝頼(武田信玄の息子)の愚策によって多くの名将達が戦死し武田家は滅亡への坂を転がり始めたと認識してる方もいるでしょう。しかし、この長篠の合戦の敗戦は武田勝頼の責任だったのでしょうか?

当時信長の天下統一事業は順調に進んでいましたが、武田信玄なき武田家の勢力も侮りがたいものがありました。武田家当主、武田勝頼は信長の同盟者である徳川家康を攻め織田信長を引きずりだすことに成功しました(信長から見れば引きずりだされた訳でなく徳川家康の要請を無視できなかったと考えられます)。ともかく武田勝頼は信長を戦場にひっぱりだしたかった訳です。

なぜか?これは実に重要なことです。勝頼は側室の子であり一時は他家に養子に出されていました。そのため家中では正式な後継者とみなされていませんでした。本来なら後継者になるはずだった人物はどうしたかというとなんと信玄が自殺させています(これは信玄最大の失敗であり武田家滅亡の大きな要因となります)そのため勝頼は自分の力を家臣達に示し続ける必要がありました。そしてやはり信長という当代きっての大大名を野戦によって打ち破ることは大きなアピールになると考えるのは当然でしょう。

対する信長は確かに武田家に一定の注意は払っていたものの、信玄健在時に比べればその脅威は小さいものと考えていたと思われます。

この両者の違いは合戦に大きな影響を及ぼしました。信長が出陣したという知らせを受けて勝頼は設楽ヶ原に布陣しました。野戦において雌雄を決しようとしたのです。これは信長の罠だったことは皆さんご存知ですね。馬防柵の中から三千丁の火縄銃による攻撃で武田軍は壊滅的な被害を受けました。勝頼のあせりと信長の余裕が生み出した結果でした。

しかし勝頼のあせりは間違いなく信玄が生み出したものです。先ほど述べたように長男を自害させたことに加え、信玄の遺言も勝頼を縛り付けました。「京に武田の旗を立てよ」こんな遺言を残された勝頼の気持ちを考えるとかわいそうになります。この遺言を無視したら信玄子飼いの家老達は間違いなく反発します。勝頼には選択肢は一つしかありませんでした。攻めるだけです。例え負けると分かっていても・・・信玄は確かに名将でしたが多くの間違いを犯しています。その負の部分を勝頼が受け継いでいたのでしょう。歴史は敗者には厳しいものです。こうした人物の真実に触れることはとても興味深いです。時々こんなことも書いていきます(笑)多分そのうち長篠の合戦そのものについても書くと思います。ボブ夫のどうでもいいことでした。
posted by ボブ夫 at 21:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年07月05日

真面目な話?

昨日は経済学のレポートを作りました。そこで著作権について私はレポートをまとめたので今日は著作権のお話をします。アメリカでは著作権の保護期間とうのはは17年間でした。しかし・・・・・めんどいんでやめます(笑)これで終わっても寂しいんでなんか書きます。織田信長は本能寺の変で死にましたが、死体が発見されなかったそうです。当時から最近まで燃えてしまったのであろうという考えが圧倒的でしたが、死体を完全に燃え尽くしてしまうには相当のことがなければ考えづらいです。本当に信長は本能寺で死んだのだろうか?こういった疑問は当時からありました。しかしそれに対するある説があります。本能寺はある種の軍事要塞だったことは調査により分かってきています。そこにはもちろん大量の火薬もありました。明智光秀はそこに火を放ったのでしょう。それにより本能寺は大爆発。信長もバラバラになってしまった・・・・・あくまでも一つの説ですが、非常に有力な説ではないかと個人的には思っています。ボブ夫のどうでもいいことでした。
posted by ボブ夫 at 15:10| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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